罪狩り 罪食い ー 原罪の解明
イエスの箴言「罪を憎んで、人を憎まず。」罪とは、人を悪人へと誘発し堕落させるものである。善悪の倫理観へ介入する存在でもある。罪の表れとして、われわれは次のことを知っている。イエスの言葉によれば罪の現れとはすなわち、「7つの大罪」で、「傲慢、強欲、嫉妬、色欲、怠惰、暴食、憤怒」のことであり、人間の邪心の状態を指す。私たちの心とは、気質、性格であり、心の形成は先天的には遺伝であり、後天的にも環境と経験による。これら後天的要素もやはり遺伝子に刻み込まれていく。
これら遺伝子情報の結果としての心は、その原因としての遺伝子の中に存在する。したがって罪とは心の状態を指し、すなわち遺伝子であって、血液であり、血統である。血液となるのは、私たちが生まれ出た時すでに血管が走り血液が流れている。胎児はそれすなわち、卵子と精子が母胎中の子宮で受精することによって始まる。ここに精子こそ、罪の本質であることが判明した。原罪とは、原精子となる。原精子とは、この罪の精子を射精する存在である。それではこの原精子を射精する存在とは誰のことであろうか?
ここで旧約聖書の創世記に描かれた誰しもが知るストーリー、あの失楽園のくだりである、イブをそそのかし、善悪知る木の実(完成すれば”智恵の木の実”となるはずであった)を食べる(成長期間中は食べてはいけないと戒めた神であった)と目が開くと誘惑した蛇のことを思い出そう。蛇とは堕落した天使長ルシフェルつまりサタン(ヘブライ語で”敵”)のことであった。また善悪知る木を思惟によって演繹し、さらに帰納することによって判明する。それは風が吹けば桶屋が儲かるである。私たちが善悪を知るその瞬間とはいかなる時であろうか。前は良かったが後に負債感を(悪く)感じるその行為こそ、愛に関係していることに気づく事ができる。愛し方によって善にもなり、悪にもなる行為とはつまり性の事となる。セックスこそまさに私たちが善悪を知る重要な経験となるのである。それは不純異性交遊と言う言葉からも想像できる。呵責によってこれに当事者が気づくのである。
さて、原精子を射精する存在とは、お分かりかな。そのとおり、サタン(敵)である悪魔こそ、その存在である。ここに原罪とは、サタン(敵)である悪魔の精子であることが判明した。
よって、カインとアベルの父親は違っていることがまた推論できた。同じ父の子がいかにして殺し合うことができるであろうか。種が違うからこそ、父が違うからこそカイン(その”嫉み”から)はアベルを殺し得たのである。カインとアベルは母を共有した異父兄弟であったのである。ここにイブは、善にも悪にも相対したことが判明した。故に女性は、悪の誘惑に屈しやすい。
人類始祖の再蕩減*¹を成すためには、理想母つまり、悪には決して相対せず、善のみに相対する女性こそが理想母なのである。「善の魅惑」であり、「悪の誘惑」である。精神的魅惑にひかれども、肉体的誘惑を拒む女性こそが”地上天国創建”に要の人類の母となり得る。
これらのことを推進していく途上には、罪食い、罪狩りが必要となってくる。それは、獣狩りである。叡智ある女性により識別された人こそまさに「人の中の人」としてこの星、地球星を天国と化して行く。