信仰と信じることの違いについての私見:BeyondHealing

信仰と信じることの違いとは?

 
信仰とは、まだ見ぬことを信じること!
 
信じるとは言動等、何らかのことで納得し認め、その後疑わずに全ては本当だと思い込み、頼りとし身を任せること!言動は、言葉(知能→アタマ)、行動(情操→ココロ)
 
【情操】最も複雑で,高次の感情。感情の中で,最も安定した形をとり,知的作用・価値を伴う。美的・道徳的・知的・宗教的の四つに分けられる。
〔西周(にしあまね)訳「奚般氏心理学̶下」(1879年)に英語 sentiment や feeling,ドイツ語 Gefühl の訳語としてある〕
 
ここから、信仰は直感(本能)が関与しているということである。私はそう感じる。
 
最善を尽くして、知性と理性の限界まで思惟し、認識し、洞察し、悟り、これらのプロセス後意識の飛翔が起こり、真の信仰が宿る。
 
敷衍すれば、信仰とは、『最善を尽くして、知性と理性の限界まで思惟することによって、知識の情報化が起こり情報となる。情報は、認識によって達成され智慧の介入がある。複数の情報から場の俯瞰が起こり洞察によって見え、悟りに至る。これらのプロセス後、意識(私実体:アダムカドモン領域、無形実体世界、量子界に生息する超微細パーティクル元素*:私ネガ)の飛翔が起こり、真の信仰が宿る。』
*超微細パーティクル元素:GLAの高橋信次氏は霊子と呼んでいる。
参照)原子・光子→霊子
 
つまり、気付きによる開眼は癒しを生み霊的成長を伴う。霊的成長を伴わない信仰を盲目的信仰と言わざるを得ない。これらの信仰者は、欺かれ、騙される。ー『彼は、盗人のようにくる。』ー 昨今の陰謀論における、「99%の真実中の1%の虚偽」にはまっている瞬間にあってはまさに陰謀論に聞こえるのだ。しかし、審神者できる信仰者には、1%の虚偽が見える。陰謀論が、事実解明論となり、『彼が、来ている』ことに気づくのです。
 
本物の信仰は、日本霊学による審神者に必須条件なのだ。
 
ここから、信仰を重んじないと受け取れる発言の、『三国からインドが外されたのは宗教色が強いから。』『天国も地獄もない』と主張する、YouTuberの天才天界さんの全てを検証すると、彼の言葉の中にも、1%の誤差が介入していると気づくのです。また、ビーガンなどの菜食主義はエビデンスが確立されており、さらにナラティブにおいても経験値として有効性が高いのです。マクロビオティクス・ベジタリアン・ローフード、総称すればナチュラルフードとしてアンチエイジングにも有効であることは、健康マニアにかかわらず昨今のニュースメディアにも取り上げられているので、周知の通りでしょう。このような汎用性の確立されている主義主張に対して、個人の肉好きという嗜好を同レベルに論じていることこそがナンセンス!かな?
 
私たちは皆不完全者であり完全ではないので、個人を全面的に信じるというのはリスクを伴うのです!著名な大著『歴史の法則』著者の歴史学者であるアーノルド・トゥインビー氏の言葉を借りれば、『私は白人という近視である!』ということからして、当然誰しもが近眼という瞽(めくら)、に違いないのです。とすれば、まさに信仰とはレンズと言えるのではないでしょうか?近眼は眼鏡を掛けるとはっきり見えるのですからね!
『彼は、盗人のようにくる。』
 
スピオタクのたわごとでした!悪しからず。 

投稿者: アインソフ

冒険心旺盛な私です。なんでもやってみたがリヤ!このサイトも独学で立ち上げています。というか、実は資金難が本音。自分ではベストを尽くしていますが、果たして評価はいかに?

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